フィルポッツ、井上良夫、そして乱歩 ( 「赤毛のレドメイン家」を読む )
井上良夫訳「赤毛のレドメイン家」(柳香書院)を入手する。
もう一年以上前の話になりますが、とある古書店で「赤毛のレドメイン家」を入手しました。今更何を、と思われるかもしれませんが、購入したのは、これが戦前柳香書院からでていた「世界探偵小説傑作叢書」であることに気がついたからです。 この叢書は、江戸川乱歩が「探偵小説四十年」でも一項を割いて触れていますが、乱歩と森下雨村が編集に当たり、全30巻を予告していた本格的な全集です。 乱歩曰く『私はすっかり乗気になって、まだ知られていない長篇傑作の大量紹介を志し、本気になって、その作品選定に当ったのであった。(中略)随分原本を読みあさったし、また井上良夫君などの助力をも乞うて、結局三十冊の優秀作品を選び出すことが出来た。』と記しています。 しかし、『出版社の側に営業上の色々の弱点があったために、読者からは歓迎されながら、予定の三十巻の僅か六分の一を出版したのみで中絶のやむなきに立ち至った。』とし、『この叢書の中絶は実に残念であった。』と結んでいます。 さて、こんな歴史的な叢書の第一巻ですし、『装幀製本なども柳香書院主人の凝り性から、類書に比して格段と立派であった』とのことですから、完本ならとても手の出ない価格なのでしょう。Web上にある画像を見ると、立派な箱入り、帯があったかどうかはわかりませんが、たしかに立派な本であることが伺われます。もちろん、そんな本が入手できるわけもなく、今回の本は「裸本、書き込みあり、汚れ」なので、見切り本扱いの300円でした。
ここで、一句。
箱入り娘の帯解れ、流れ流され見切り本 .. お粗末(笑)。
閑話休題。この本の奥付を見ると、「昭和十年十月十五日印刷 昭和十年十月廿十日発行 定価壱円五拾銭」とあります。訳者は井上良夫、抄訳でしょうが、340ページあるので極端な省略はないと思われます。
井上はその序文で、フィルポッツの位置づけをヴァン・ダインやクロフツに並ぶ高峰としたうえで、「赤毛のレドメイン家」については、
『探偵小説の持つ独特の興味は、これをストーリイの面白みと論理的面白みに分け得られよう。ストーリイの興味のみを追ったものは探偵小説としては物足りなく、また論理的興味に偏したものは小説としての興味に薄く、砂を噛むの無味に陥りやすい。「レドメイン」に於て賞すべきは、この二つの興味が共に申し分なく備わっていることであろう。』
と高く評価しています。
考えてみると、「赤毛のレドメイン家」は、昔ジュブナイルで読んだままだった気もします。今回購入したこの本、だいぶへたってはいますが、中はきれいなので、読むのに躊躇することはありません。良い機会なので、通読、評価してみましょう。
乱歩、「赤毛」を激賞する
さて、「赤毛のレドメイン家」が日本で評価が高いのは、江戸川乱歩の評論によるものと言っても過言ではないでしょう。この文章は、まず「ぷろふいる昭和10年9月号」に発表され、その後「鬼の言葉」や、戦後の「海外探偵小説家と作品」にも掲載されています。
この中で乱歩は、『今年の初め、ふとしたことから名古屋の井上良夫君にフィルポッツの長篇探偵小説を数冊借覧したのであるが、その内の一冊「赤毛のレドメイン一家」がひどく私を喜ばせた。(中略)「レドメインズ」は近く訳本が出ることになっているが、それの読者の為にも、私自身の読後感を記して置くのは、興味のないことではないと思う。』と前置きし、「赤毛のレドメイン家」評を開始します。
まず、乱歩は下記のように全体の展開を高く評価します。
『この小説の読者は、前後三段に分れた、万花鏡が三回転するかの如き鮮かに異った印象を受けることに一驚を喫するであろう。』
ただ、前半のストーリーについては...
(1) 『一体に平凡であって、恐らくは多くの読者は退屈を感じ、「この調子で最後まで続くのだったら、大して面白くないぞ」と独合点をして、本を投出し読書を中絶し兼ねないと思う。』
と問題を指摘しますが、同時に次のように弁護しています。
『こういう退屈感は、大部分の本格探偵小説に免れ難い所であって、(中略)後半の面白さが前半の退屈を十分取返して猶余りあるかどうかにある。(中略)「レドメインズ」はそういう意味では、成功以上に成功していると云ってよいのである。』
要するに、「前半退屈なのはちょっとカンニンしてや、後半オモロなるけんね」と言っているわけです(笑)。
そして、中盤から後半の展開については、評価を一転させます。
(2)『ここに至って読者はハッと目の醒めるような生気に接する。我々の車窓の風景は俄然として一変するのだ。(中略)そして、それから最後までの二段返し三段返し、底には底のあるプロットの妙に、恐らくは息をつく暇もないに違いない。』
と称賛します。
同時に大きなポイントを指摘します。
(3) 『実を云うと、犯人それ自身はさして意外な人物ではない。鋭敏な読者なれば第一回の殺人を読むや否や、おぼろげながら作者の秘密を悟るでもあろう。』
と言いつつも、
『だがそれにも拘らず、結末には十分の意外がある。仮令真犯人は想像していても、その外の企みに企んだ幾つかの「意外」が、犯人の「意外」と巧みにも有機的に結合して、読者を心から感歎させるのである。』
と結論づけます。
称賛は続く
ここから乱歩は、『犯人の脳髄に描かれた緻密なる「犯罪設計図」に基いて、一分一厘の狂いなく、着実冷静に執行されて行った跡は、驚歎の外のものではない。それは「芸術としての殺人」でさえある。』などなど、これでもか、これでもか称賛を続けるのであります。
さらに乱歩は畳み掛ける
ここまでの評価も相当な激賞なのですが、
(4) 『以上はこの傑作を読み終った直後の感想であるが、ところが、実に不思議なことには、それから五日とたち十日とたつにつれて、読者の心に、又してもガラリと変った第三段の印象が形造られて来るのだ。(中略)このように濃厚な色彩残像を残す探偵小説を私は嘗つて読んだことがない。』
いやあ、この最後のフレーズは凄い。
「赤毛のレドメイン家」をいま読むと...
さて、この作品を現代の読者はどのように評価するでしょうか。上記、赤ラインで囲んだ乱歩の評価(1)〜(4)を踏まえて考えていきましょう。
この「赤毛のレドメイン家」を高く評価するためには、3つのハードルを乗り越える必要があるように思います。
まずは、リーダビリティの問題です。
前半は、乱歩評価(1)にありますように、『本を投出し読書を中絶し兼ねない』状態ですから、これに耐えてまで読ませる何かが必要になります。ミステリに於いて、それを維持するモーティベーションとなりえるのは、謎自体の面白さ、特に犯人の正体やどんでん返しのような意外性ではないでしょうか。
しかし、この作品では乱歩評価(3)にありますように、『犯人それ自身はさして意外な人物ではない』ですし、実際に読んでみると、別に鋭敏な読者でなくても、作者の秘密を簡単に悟ると思われます。乱歩は、それでも『意外性は十分だ』と強弁しますが、本当に読書を続けていく意欲を持続することができるでしょうか。これが第一のハードルにして、最大のものでしょう。
ここを乗り越えた上で、次のハードルは、乱歩評価(2)にあるように『二段返し三段返し、底には底のあるプロットの妙に、恐らくは息をつく暇もない』と感じる読者がどれだけいるかという点です。正直言って、プロットは極めて単純で、犯人による赤毛一族の財産強奪にすぎません。とても『二段返し三段返し、底には底のあるプロット』があるとは思えないのです。
最後のハードル(乱歩の評価(4))は、さらに高いと思われます。読了後、数日経ってから、『ガラリと変った第三段の印象が形造られて来る』、このような付加価値まで感じる読者が、どれだけ存在するのでしょう。
今回、わたしは最初のハードル(1)をなんとか越え、ようやく最後まで読み切れたというのが正直な感想です。したがって、採点は「傑作どころか、水準作とも言えない」、そんな評価にとどまります。
さて、乱歩は「赤毛のレドメイン家」によほど惚れ込んだのか、自らこの作品のプロットを下敷きに、「緑衣の鬼」という作品を発表します。
次回は、この作品を見ていきましょう。