雨月荘殺人事件 ( 和久峻三 )

話が平板で盛り上がりに乏しい。終盤まで何のひねりもない展開は、ミステリとして評価できない。



「捜査ファイルを読む」 2冊めは

乱歩賞作家で、弁護士でもある和久峻三の「雨月荘殺人事件」(1988年)を取り上げましょう。

表紙に「公判調書 ファイル・ミステリー」とありますが、書籍の中身は「市民セミナーの説明資料」と「裁判記録」の二分冊で構成されています。

元裁判官である巻川正治が講師とする市民セミナーが舞台になります。巻川が実際に担当した事件を、捜査資料に基づき概要を説明していくという趣向です。

セミナー参加者は、様々な環境にある下記の男女7名。

山口朝子(主婦) 宮本昭二(会社員) 藤林真砂子(OL) 片山宗之助(ご隠居) 川端孝次(大学生) 富田真理子(女子大生) 畑信和(高校生)

開催前に出席者は、捜査資料の該当分を事前に読み、各回のセミナーで内容について議論する形式となっています。読者も同様な形で読み進めることになるわけです。

起訴内容

被告の月ヶ瀬紀夫は、資産家である妻郁子に愛人がいることなどから離婚話となるが、慰謝料の額を巡って対立。温泉旅館「雨月荘」にて郁子を殺害、自殺を偽装し死体遺棄を図ったというのが罪状である。被告は捜査段階で殺人と死体遺棄を自白したが、その後無実を主張している。

事件の概要

被害者である月ヶ瀬郁子は名古屋の芸者だったが、20歳のときに第一興業の先代オーナー月ヶ瀬直次郎(当時81歳)に見初められて結婚。その後85歳で死別、莫大な遺産を引き継ぐ。
4年前に、31歳で金融会社の担当であった紀夫(32歳)と再婚するが、1年で夫婦仲は冷えきり、郁子は常務取締役で番頭格の高倉和彦と遊び歩いているという。また、秘書役の井口倫子ともレズ関係にあると噂される。

事件現場となった「雨月荘」は直次郎が金にあかせて構築したもので、木造三階建て、ひのきを使った豪勢なものである。しかし、旅館としては団体客に対応できないなどの問題もあり、現在銀行から6億円を借り入れ、改築計画中という。

犯行当日、「雨月荘」の二階には第一興業の慰安旅行で、月ヶ瀬郁子、専務取締役月ヶ瀬紀夫、常務取締役の高倉和彦、平取締役で社長秘書の井口倫子が宿泊。また、「雨月荘」常連である元実業家で、現在は盲目の詩人である吉野坊城夫妻もこの階に宿泊していた。

辻野繁太郎警部の捜査

事件当日、旅館内を探検していた五歳の少年が三階の剥製展示室の入り口で、月ヶ瀬郁子首吊り死体を発見する。
現場の剥製展示室は、ほとんど使われていないため、床に埃が積もっており、人が近づいた形跡はない。この状況から、当初は自殺と見られていた。

しかしながら、捜査にあたった辻野警部はいくつかの疑問点を発見する。

  • 死体の死斑状況を見ると、首吊り状態になる前にどこかに放置された状況が見られること。
  • 首吊りロープが「首吊り結び」という絞首刑に用いられる形態であったこと。
  • 片側も「追い剥ぎ結び」という、これもまた特殊な結び方であったこと。
    芸者上がりの被害者がそのような結び方を知っているとは思えない。

さらに、辻野警部は階段に敷かれていた絨毯の金具から、月ヶ瀬紀夫の指紋を発見する。彼は過去に業務横領の前科があり、指紋が登録されていたのである。
なぜ、こんなところに指紋があったのか。辻野警部は、月ヶ瀬紀夫が現場に痕跡を残さない工作をしたもの と断定する。

これに追いつめられたのか、月ヶ瀬紀夫は犯行を自白したのであった。

証言

ここからは関係者の証言が続きます。

「雨月荘」関係者

支配人の藤本久仁男は町工場を経営していたが、うまく行かず、3年前から「雨月荘」支配人をしている。「雨月荘」の改装費用である借り入れ6億円は、第一興業の資金繰りに当てられることを指摘する。犯行当夜は肩こりがひどく、マッサージ師治療を受けたうえ寝てしまったという。
雑用係の河合勝之助は、先代には可愛がられていたが、月ヶ瀬郁子と折り合いが悪く、クビにされそうになっていることを認めた。
従業員の主任格である寺田照代は、妹雪枝が先代の妾であったが、郁子との結婚のため別れ話を持ち出され、剥製展示室で自殺したという過去がある。彼女は、雪枝の霊が月ヶ瀬郁子を剥製展示室へ呼び寄せ、首を吊って自殺させたと信じているらしい。

彼らの証言を総合すると、月ヶ瀬郁子と月ヶ瀬紀夫は、負けず劣らずの嫌われものだったことも判明します。

「第一興業」関係者

月ヶ瀬紀夫は、結婚1年程度で夫婦仲が悪くなったと言い、犯行時間には自室に鍵をかけ、朝まで寝ていたと証言。
常務取締役高倉和彦は、会社が倒産寸前であると認めたうえで、当夜は会社のことが心配になって、月ヶ瀬郁子を捜していたという。途中秘書の井口倫子とも同行したものの、結局連絡が取れなかったと証言する。
井口倫子は月ヶ瀬郁子との関係を否定し、高倉との行動を話す。

このあたりの証言内容は、すでにわかっている事実の繰り返しにすぎません。

盲目の詩人吉野坊城

重要な事実を証言。
深夜2時半に散歩に出た際、三階の犯行現場近くで人の気配を感じたという。確信はないが 、ヘアトニックの匂い がしたと証言。犯人が犯行後、盲人の吉野をやり過ごした可能性もあるという。
バニラの匂い だったら、犯人は発見者の少年だけどね(笑)。

横領が発覚

その後、月ヶ瀬紀夫が会社の金5000万以上を横領していたことが明らかにされる。彼はそれを認めるが、高倉もやっていることだ、などと開き直る始末。どうしようもない輩である。
冤罪でもいいから、こいつを犯人にしようぜ(笑)。

判決

判決以降については、対応部分の「市民セミナーの説明資料」2回分と「裁判記録」数ページが 袋とじ になっています。


解決編を読んで評価する

ミステリーとして見る

よく出来た法廷物では、中盤で予想外な証言や新事実が出てきて、そこから新たな展開が始まります。これによりリーダビリティを高めていくのが作家の手腕でしょう。
この作品では、最初の段階で明らかにされた事実からの新展開がほとんどありません。すでに読者にはわかっている事実を証言記録で繰り返すだけなのです。これが300ページ以上も続くのですから、極めて冗長で退屈と言わざるえません。

厳しい言い方をすれば、これは作者のストーリー・テリングにセンスがないことを示しています。
読者は小説を楽しく読みたいのであって、市民セミナーで法律の勉強をしたいわけではないのです。いくら実際の捜査資料をベースにしているからといって、ストーリーまで現実世界のように、無味乾燥なものにしてはいけません。

また、「市民セミナー」という形式をとっているので、各回ごとにメンバーの推理が挟み込まれるような趣向かと期待していたのですが、そのような展開はまるでありません。
毎回、講師の巻川が一方的に裁判のルールや仕組みを説明するだけで、メンバーは「よくわかりました。」と拝聴するだけで終わっているのです。巻川は、作者和久峻三の分身ですから、悪く言えば、読者は彼の知識のひけらかしを聞かされているようなものです。

事件の真相

最終的に真相も明らかになるのですが、なんの意外性も、面白さもない設定でした。
そもそも自殺を装う必然性が薄いし、犯人の動機が事前に明らかになっていないことなど、フェアプレイ精神に欠けていますね。

捜査ファイルとして見る

裁判記録という地味なものがベースになっているので、写真は上に掲げた4枚程度。証拠品が添付されているわけでもありません。むしろ、手書きの文字で書かれている部分を読まされるのは苦痛で、普通の印刷になるとありがたく感じるほどです。
捜査ファイル物としての必然性にも欠けている と言わざるえません。


全体として

あとがきで「マイアミ沖殺人事件」(1936年)に言及しています。

「『マイアミ沖殺人事件』など、一連の捜査ファイル・ミステリーが、世界で初めてであることは確かだが、今回、わたしが書きあげた公判調書ファイル・ミステリーは、それにもまさる「世界で初めての試み」であるというので、出版社でも書類の複製やトリックの実験などに気をつかい、推理小説史上におけるエポック・メイキングにするという熱意で、出版計画が進められた。」としています。

出版社の熱意には、敬意を表しましょう。
ただ、50年以上前の作品を参考にしたにもかかわらず、ミステリー面ではとても及ばず、捜査ファイルの必然性に乏しく、勝るものが何かあったのでしょうか。


購入したのは

中央公論社 1988(昭和63)年刊行で、定価2800円。立派な装丁の本です。2000年に南森町の天牛にて、880円で購入しました。

「マイアミ沖殺人事件」もこの作品も、文庫版が出ています。前者は是が非でも初刊本で読みたいものですが、この作品は文庫で十分でしょう。読みたい方は、ブックオフの均一棚でも探してください。